2009/09/25
伊勢湾台風から50年になりますけど、(名古屋市港区の)本社からちょっと離れた所に第1工場があって、全部そっくり流されたんです。当時、高校生だったんだけれど、学校休んで朝早くから夜遅くまで手伝って一から復旧したんですよ。この辺りで一番早かったですね。厳しい時にやり抜く精神力、行動力というのはものすごく学んだ気がします。
高校、大学とラグビーばっかりやっておって、大学2年の夏休みに帰ってきたら、創業者の前会長(父の故伊藤治雄氏)に「会社に入って社会人としてやった方がいいんじゃないか」と毎日のように説得されて。
(大学を)辞めるならよその会社へ修業に出させてくれと希望したら、よそへいくと“単品”の仕事しかさせてくれんと。いろんな指導をしてやるからと言われて。本当に下積みの現場から運転手から何から、全部経験しましたね。
当時は潤滑油を造るのとガソリンスタンドが主体の会社だったんですが、1971年に廃棄物処理法が施行された。産廃処理やリサイクル業へと大きく転換して全国展開していったのを、中心となって実践してきたという自負はありますね。
95年に店頭公開したのが、廃棄物処理の専業では全国初めてだったんです。こういう業界は、どちらかというとちょっとダーティーな認識が強かったじゃないですか。「廃棄物だったら何でもかんでも持って行け」とか「リサイクルした物を使っとることを、絶対よそに言わんといてくれ」とか。
そんな中で何とか世の中にこの業界を認知させたいと思いまして。一抹の不安とですね、きっちりとした体制をとっておれば絶対に大丈夫だという自信が入り交じっていました。今でこそ世界的な環境問題の後押しで、循環型社会の構築になくてはならない存在になっていますけどね。
泥くさい業界に見えますが、最先端の企業から出てくる廃棄物の処理やリサイクルには新しい技術開発が必要で、どんどんやらしておるわけです。若い技術者も多いので、「自信を持ってやれ、最先端の技術で勝負しとるんだぞ」と。
景気低迷の影響もありますが、苦しい時期でもここと決めたら何とかものにする。精神論ばっかじゃいかんけれども、やっぱりそれがないとね。
【いとう・ひろゆき】 中央大文学部中退、63年大同石油化学工業(現ダイセキ)入社。専務、副社長を経て96年から社長。95年に株式を店頭公開し、99年に東京証券取引所と名古屋証券取引所の第2部に上場。2000年には各第1部に指定替え。09年2月期の連結売上高は約372億円。名古屋市中区出身。66歳。
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