2009/08/26
寄せ木細工の幾何学模様が美しい木製小箱。手のひらに乗せた女性観光客の顔が、不思議そうな表情になった。箱の模様は切れ目がなく、開け方が皆目分からない。
「ひっくり返してコンと音がしたら、(箱の中のからくりで)開かない仕掛け」
作り手の二宮義之さんが軽妙に説明しながら箱を開けると、わあっと歓声が上がった。
八月、神奈川県箱根町で開かれた実演会。こうした木の仕掛けのからくり箱は「秘密箱」と言われ、明治時代から続く。観光地・箱根独自の木製品だ。
二宮さんの箱は、しゃれた模様と念の入った仕掛けに定評がある。土産物の域を超え、国内外のパズル愛好家らも足を運ぶ。
「お客さんと対話すると新しいアイデアも生まれる。それが楽しいんだ」
木工歴は六十四年。始めたのは十六歳、終戦の年だった。小学校高等科を卒業後に勤めた航空機メーカーの製造工場が閉鎖され、地元の湯本町(現箱根町)に帰ったのがきっかけだった。
寄せ木細工職人の父親の勧めで、隣の小田原市に開設したばかりのマスダ木工芸技能者養成所に入所した。平和な世になり伝統産業の復興にかける同所の意気込みは強く、のこぎりやかんななど道具の使い方から指し物技術まで熱心な指導を受けた。
卒業後は実家で父親と仕事した。「進駐軍の米兵が土産にと、秘密箱はよく売れた」「飽きたらなくて、父親が寝た後も夜ごと、引出箱や裁縫箱など作りたい物をこつこつ作っていた」
やがて社会は高度経済成長へ。伝統産業には厳しい時代になる。売り上げが落ち、ドリンク剤のセールスマンもやった。息子二人は結局、後は継いでいない。
転機は四十二歳、箱根物産デザインコンクールなどで受賞を重ねたことだ。「自信はまるでなかったから、夢かと思った」。同時に、腹が据わった。
「物まねじゃなく、自分の顔になるオリジナル作品を持っているのがプロ」と、五色の市松模様やストライプの矢羽根模様など、他人が使わない模様を取り入れた。図面は引かない。「思いついたアイデアを、途中で忘れたり思い出したりしながら」こしらえる。
五十二歳で東京・銀座で初個展を開催。翌年、地元で展示販売店「木楽」を開き、ファンクラブもできた。職人たちと「からくり創作研究会」も設立した。
「私の作品を楽しみにしてくれている友人に向けて、次はこんなデザインにしよう、仕掛けもこう変えようか、と常に楽しみのある仕事ができる。作品を通じて多くの友人ができたことが財産だ」 (鈴木久美子)
◆若い世代へ 常に挑戦する覚悟を
最近、からくり職人になろうと、若い人が各地から箱根に飛び込んでくる。とてもうれしいが、ものづくりの世界で生きていくのは非常に厳しい。常に新しいものに挑戦する覚悟がなくては続かない。50個作ったら、50人のお客さんが付くくらいおもしろい物を作らないと。独り善がりではだめなのだ。ユーザーがいて製作者がいることを忘れないで。人の作品もたくさん見て、何かしらいいところを見つける。そういう目ができれば、半歩前に進める。
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