2016/02/11
仕事の幅が広がり自信
ウールや綿、麻、化学繊維…。さまざまな素材の織物が、染色機の中で染め上げられていく。岐阜県大垣市の染色会社「艶金化学繊維」の工場。十五年前に血液がんの悪性リンパ腫を発症した染色課長の岡清博さん(59)は、色を調整するパソコンの画面に目を光らせた。
顧客の注文に応じて微妙な色の違いや風合いを出すため、染料の配合や素材との組み合わせや、気温を見極める。経験と勘がものをいう職人技だ。入社四十年で、染色の中枢を担う岡さんは「がんはつらい。でも、がんになったことで会社のさまざまな部署を体験し、仕事の幅が広がったんです」。
四十四歳のとき、首のリンパ節の腫れと、立っていられないほどの倦怠(けんたい)感に襲われた。精密検査の結果、進行したステージ3の悪性リンパ腫と判明。主治医から「五年生存率は50%」と告げられた。半年間の入院と自宅療養で抗がん剤治療を受けることになった。
妻は泣いていたが、自分にとってショックだったのは「半年も仕事ができないこと」だった。従業員百人ほどの中小企業で、工業高校を卒業して入社以来、ほぼ染色の現場一筋。高額な治療費に加え、自宅のローンも十五年残っており、収入がなくなることも不安だった。
幸い、新しい抗がん剤が効いた。消化しきれなかった有給休暇を積み立てて、傷病などの際に使える当時の親会社の制度をそのまま活用でき、辞めずに済んだ。
特にうれしかったのは、入院中に何度も総務担当者や同僚が見舞いに訪れ、「早く治して復帰して。待っとるよ」と言ってくれたこと。「働ける場所があることが支えになった」
入院前は、百キロ以上もある反物を台車で軽々と押す社内一の力持ち。だが、強い抗がん剤の影響で、体力が落ちており、復職時は商品開発部門に異動になった。上司からは「体の負担が少ない部署だから」と説明された。初めての部署で仕事をする戸惑いは、染色現場とは違う世界を知るにつれ消えた。
流行や得意先の細かな求めに応えるため、何度もやり直して見本を作る。常に顧客の満足を追究する姿勢に頭が下がった。ともすれば、自分の目や技術を過信しかねない現場の欠点も分かった。体力の回復に合わせ、染色した織物を仕上げる部門に異動し、軽作業を担当。仕上げをしやすく染色する視点が身に付いた。
一年半後に再発したものの、新たな治療法の造血幹細胞移植を受けて乗り切り、同じ職場に復帰。他部署の経験を積み、体力がほぼ回復した二〇〇八年に“本籍”の染色に課長として戻った。二つの異動が新たな気持ちで仕事に向かう糧になった。
当時、専務だった墨(すみ)宇一郎さん(66)によると、同社が従業員のがんに対応するのは初めてだった。「中小企業にとって人は宝であり、辞められてしまっては痛手になる。戻ってきてほしいと対応したことが、全体を見られる人材を育てることにもつながった」
その後の経過観察も順調で、半年に一回だった定期検査が昨年からは年一回に。「仕事をしている時が一番幸せ」。来年の定年を控え、二月下旬に課長を継ぐ部下の三浦拓夫さん(44)への指導に力を入れている。
(山本真嗣)
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