2013/03/07
閖上を笑顔にしたい
仕事辞め復興へ尽くす
震災の4日後、すべてはブログの呼びかけから始まった。「母、弟の安否確認は取れていません。小さな情報でもかまいません。コメントを下さい」
荒川洋平さん(31)は宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の自宅を津波にのまれ、母八千代さん=当時(58)、弟孝行さん=当時(27)=が行方不明になった。避難所を歩き回っても手がかりはなく、途方に暮れた。
インターネットでブログを始めたのは、わらにもすがる思いから。家族への思いと故郷への愛、その惨状を率直に伝えると、「閖上の現状は多くの人々に届いています」「『閖上が大好きです』という言葉に涙が出ました」と多くの反響が返ってきた。「被災地のことを伝え続けなければ」という気持ちが芽生えた。
復興を話し合う住民有志の会議に顔を出すようになった。気になったのは、若い参加者が自分以外にいないこと。津波で死亡した市議らに代わる補選では、無投票で5人が当選した。「復興を真剣に議論すべき時なのに」と歯がゆさを覚えた。
2011年の末、勤務先のウェブデザイン会社が仙台市から東京に拠点を移すことになった。「洋平はこれから何がしたいんだ」。ブログの開設を勧めてくれた先輩から聞かれ、とっさに翌年1月の市議選が頭に浮かんだ。「地元のために働きたい。選挙に出ようと思う」
レスリングの五輪代表候補だった厳格な父勝彦さん(64)は「できるわけねえ」と強く反対したが、1つだけ条件をつけて折れた。「母親の話はするな。同情で票をもらうな」
明るく、誰からも愛された「おかあ」。自宅から、3人の息子ごとに思い出の品を入れたお菓子の缶が、泥だらけで見つかった。自分の缶を開けた。幼稚園の出席カードや小学校の通信簿、バスケットボールで活躍した時の新聞記事。「自分のものは何もないのに。子どものことばかり考えていた」
告示前の決起集会で、一度だけ父との約束を破った。「閖上の復興に貢献することが、母への恩返しにもなる」。話しながら、泣きじゃくっていた。選挙事務所には、母の友人も手伝いに来てくれた。準備期間は1カ月。票読みもできなかったが、定数21人のうち2番目となる2000票を得て当選した。
地元はいま、現地再建か集団移転かで意見が二分され、復興計画が滞る。津波を恐れ、故郷を離れたい気持ちも分かる。それでもやはり閖上の地で復興を志す。「戻る人が少なくても、魅力ある街をつくれば、また人は集まってくる」
議会では断トツの最年少。「できないことがたくさんあることも知った」。閖上は幼稚園から中学校まで一つしかなく、ほぼ全員が先輩、後輩の間柄。仮設住宅で報告会を開けば、若造扱いで「おまえは何も仕事してねえ」と厳しい言葉を浴びることもある。
政治家に染まりたくはないが、気が付けば自由奔放だったブログは堅苦しくなっている。自分でも「面白くねえ」と思いつつ、表現に気を配る。この仕事が天職になるのかは分からない。ただ、これだけは決めている。「みんなが笑顔になれることをする。閖上の復興を見届ける」
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