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【社会】3.11に生まれたもの/(2)納棺師

2013/03/06

妻子の分まで心込め
美しく整えて送り出す

 こわばった筋肉をもみほぐし、髪や体を丁寧に洗う。頬紅を差すと、ぐっと顔の生気が戻ってくる。家族との別れに臨む故人の身支度を整えながら、盛岡市の納棺師、川村祐也さん(28)は心の中で呼びかける。

 「おじいちゃん、天国に行ったら、うちの子と遊んであげてね」

 2年前のあの日、川村さんは会社の出張で盛岡市にいた。岩手県山田町の自宅にいた妻=当時(21)=は、1週間前に生まれた次男と退院したばかり。生後11カ月の長男と3人で、大黒柱の帰宅を待っていた。

 「いま逃げるところだから」。大きな揺れの後、一度だけつながった電話を最後に妻との連絡は途絶えた。幸せに包まれるはずだった海沿いの一軒家を津波がのみこんだ。

 妻子を捜し続け、1週間が過ぎたころ。自宅があった場所から200メートルほど離れたあたりに、見覚えのある赤い屋根を見つけた。死に物狂いで取り払うと、長男を片手に抱いた妻の姿があった。もう一方の手も、次男を抱いていたように固まっていた。「子どもを離そうとしなかったのでしょう。気持ちの強い彼女らしかった」

 4月中旬、次男の遺体が見つかる。妻と長男の葬儀前日だった。覆っていたおくるみに見覚えがあり、初めて見るわが子だと確信した。傷だらけになった小さな遺体を手に抱き、泣いた。

 「あんたがいなかったから…」。周囲から、そんな言葉も耳に入った。何より自分で自分を責めた。いたたまれなくなり、7月に盛岡市に移り住んだ。

 「何もする気が起きず、生きていてもしょうがないと思った」。仕事は辞めて親に借金し、パチンコに明け暮れた。再起のきっかけは、アパートのポストに入っていた求人チラシ。「納棺師募集」に目がとまった。

 妻が横たわる体育館の遺体安置所で、自分はぼうぜんとするばかりだった。着替えも、化粧もしてやれなかった。髪についた砂を取ることさえも。「自分ができなかった分、他の人にやってあげたい」。震災から半年後、納棺師として働き始めた。

 時間がたった遺体は容貌が変化し、臭いが強いこともある。そのショックで挫折する人もいるが、「大変」と思ったことは一度もなかった。「自分が納棺師として成長していくことで、亡くなった息子たちが成長していく気がするから」。強い決意で選んだ道に迷いはなかった。

 「きちんと悲しんで家族を送り出してほしい」と願う。自分は遺体安置所で周囲に気遣い、思い切り泣いてやれなかった。化粧道具を手に、写真や目尻のしわから想像し、生前の笑顔の表情に近づける。

 泣き崩れる遺族に、自らの経験を話すこともある。故人が若い女性や子どもの場合は特に、熱いものがこみ上げる。そんな時は震災の2週間ほど前、まるで離別を予感したように、妻が送ってきた不思議なメールを思い出す。「私たちに何かあっても泣かないでね。絶対に強いパパでいてね」。だから命日しか泣かないと決めている。

 「納棺師の仕事を見つけられたから、生きていられた」。震災が自分に与えた使命。それは、人の哀(かな)しみに向き合っていく人生。心を込めた仕事が、妻子の供養になると信じる。

同僚を相手に、顔に化粧を施す練習をする川村祐也さん=盛岡市内で
同僚を相手に、顔に化粧を施す練習をする川村祐也さん=盛岡市内で