2013/03/05
海で涙は流させない
父の遺体に誓った決意
海上保安学校の学生は、船室と同じ狭いベッドで寝起きする。いち早く海の生活に慣れるためだが、「寝返りもできません」。宮城県美里町出身の佐藤大地さん(19)が笑う。「最初の半年は大変だったけど、今は充実しています」。京都・舞鶴港の学校に入り、まもなく1年がたつ。
「お父さん、遅いね」。震災の夜、母(45)、弟(16)と父直(なおし)さん(51)の帰宅を待っていた。揺れの直後、母は仙台市の沿岸で働く父と電話で話した。「気を付けて帰って来てね」「うん、分かった」。停電した内陸の自宅で、大津波の襲来は知る由もなかった。夜が明け、3日が過ぎ、1週間が過ぎた。
海に近い老人ホームでお年寄りを避難させていたと、父の同僚が教えてくれた。「助けが必要な人がいれば、嫌な顔一つせず手伝う性分だったから」。10日目、宮城県警のホームページの犠牲者欄に父の名が載った。母は遺体安置所へ向かった。
夏は釣りやキャンプ、冬はスキー。1年中、家族を外へ連れ出してくれた。ようやく帰った父は、ほほ笑むような安らかな死に顔だった。親類たちが帰り、家族だけになると、涙があふれた。声を上げて泣いた。泣きながら、遺体に告げた。
「お父さん、僕は必ず自分で道を開く。お父さんがくれた名に恥じないよう、自分の足で立って生きていく」
父を奪った海に立ち向かおうと決めた。「海上保安官になって、自分のような不幸な人間を1人でも減らしたい」。以来、一度も泣いていない。
体が弱い母は、気持ちが不安定な日が続いた。思春期の弟は、やり場のない怒りと悲しみに苦しんだ。中学では保健室にこもって泣き、母に対し「お父さんだったら、そんなこと言わない!」と物を投げ付けた。
「いないもんはしょうがないべ」。諭すように言って聞かせた。「お兄ちゃんは冷たい」。たとえ、なじられても、立ち止まる暇はなかった。入試に向け、毎日10時間以上、勉強した。父の死が羅針盤となり、示してくれた道。真っすぐ進み、父を弔いたかった。
難関を突破し、全国から集まった400人の仲間との寮生活は、刺激が多く楽しい。ただ、東北を離れると、震災が過去になろうとする空気を肌で感じた。ふざけ合い、「殺すぞ」と冗談を言う友達。心の中でつぶやく。(死んだら本当に帰って来られなくなるんだよ。明日になったらいないんだよ) 毎日、水や食事が出るありがたみを、みんなは知らない。仲間には内緒で取材を受けた。「震災はまだ続いている。忘れかけている地域にも呼び掛けたい」。微力でも風化を止めたい。
震災から1年たっても2年たっても、寒い海で捜索を続けるダイバーは東北の人々の救いだという。「僕も潜って、遺体の爪の1枚でも、思い出の品でも、何でも見つけてあげたい」
将来、目指す特殊救難隊は狭き門。厳しい訓練が待っている。
◇
「3・11」は多くの命を容赦なく、一瞬で奪い去った。残された人々の心を襲う喪失感。それでも、絶望の中から生まれたものがある。東日本大震災から2年。命を受け継ぎ、新たに生きる道を見つけた人々の姿を伝える。
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