2012/02/17
似顔絵を金太郎飴に
飴職人 渡辺 鉄男さん(71)
金太郎飴(あめ)の元祖として知られる「金太郎飴本店」(東京都台東区)。明治の初めから続く老舗だ。職人たちが飴を作る作業場はどこか懐かしく、甘い香りに満ちていた。
水飴と砂糖を煮詰めて作った飴を一度鉄のトレーに入れ、60度ぐらいまで冷やす。低温になると硬くなるので手早さが肝心。6人の職人が分業し、顔のパーツを重ねていく。「これが金太郎の眉と鼻。こっちはまつげ」。5代目の渡辺鉄男さんが、ピンクや緑などに色付けされた飴の塊を指さす。「気心の知れた職人同士。お互い何も言わなくても作業が進む」
作り始めて15分もしないうちに直径約35センチ、長さ約70センチ、重さ約50キロの原形が完成。特大太巻きのような原形を直径約2センチまで細く伸ばして切ると、約7,000粒の金太郎飴ができる。今は伸ばすのは機械の仕事。「機械化したのは1960年代。以前は手作業で、職人たちが太い飴を綱引きするように細くしていた」
子どものころから飴作りは生活の一部だった。「職人さんと遊んだり、飴作りも手伝った。作り方は見よう見まねで分かっていたね」。大学卒業後、時代は高度成長期で、店の職人のなり手がない時期だった。「店は兄が継ぐと分かっていたが、家族を手伝わないわけにはいかなくて」。飴職人として働き始めた。ところが、4代目を継いだ兄が早世。37歳で5代目に。
キャンディーやチョコレートなど西洋菓子に押され、飴屋の将来は晴れやかではなかった。「とにかく店を次の代に残したい」。ほそぼそと飴作りを続けながら、どんな飴が喜ばれるかを考え抜いた。
80年代に入るころ始めたのが「ブライダル飴」。金太郎飴作りのノウハウを応用し、新郎新婦の似顔絵を飴にした。「近所の女性が結婚するときに『自分の似顔絵を飴に』と頼まれたのがきっかけ」
試行錯誤の連続だったが、好評を呼んだ。「新婚旅行先から『飴のおかげで披露宴が盛り上がった』と手紙をもらったり。喜ばれると職人冥利(みょうり)に尽きる」。客の希望で子どもや赤ちゃん、犬などのペットの顔の飴も作るようになった。
「うちで作れるのは飴だけ。時代に合う、新しい飴を考え続けていかないと」。その心意気は、6代目となる長男に受け継がれる。
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