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【社会】憲法施行70年・理念はいま、/過労死

2017/05/07

残業社会から決別を

 自動車部品の分解図。細密画のように描かれたエンジンやモーターから、まじめな性格や車への愛着がうかがえる。

 2011年9月に亡くなった愛知県安城市の三輪敏博さん=当時(37)=のノート。整備士を目指し、同県北名古屋市の実家から専門学校に通っていた当時のものだ。同じ学校出身の父清孝さん(71)は「私もきちょうめんだけど、これほど丁寧には…」とページをめくる。

 あの朝、父は息子の妻香織さん(40)から電話を受けた。「敏くんが…」。虚血性心疾患による突然死。自宅のベッドで、うつぶせで息絶えていた。

 トヨタ自動車のグループ会社で、救急車の防振ベッドを組み立てる部門のリーダーだった敏博さん。東日本大震災の影響で一時減っていた仕事が、反動で急に増えていた。他部門への応援も重なり、連日深夜までの勤務。香織さんは「仕事以外の時間は、ほとんどなかった」と振り返る。

 思い返せば、清孝さんの現役時代も長時間労働が当たり前だった。

 高度経済成長期真っただ中の1960年代。別の自動車メーカー系列の整備会社に入った。夜の10時、11時まで働き、翌朝は5時に起きた。客の要望なら徹夜の作業もいとわない。「お客さま第一主義だった」。休日や深夜までサービス労働をしなければ職場が立ち行かない現実もあった。

 親子にとって、忘れられない思い出がある。敏博さんが高校3年の夏休み。清孝さんが壊れたエンジンを持ち帰り、一緒に直した。無数の部品を組み合わせ、一発で息を吹き返した感動。父の伝えたやりがいが息子を同じ業界に導いたが、清孝さんは自責の念にさいなまれる。無理な働き方まで背中で教えてしまったのではないか、と。

 厚生労働省は過労死の認定基準を、直近一カ月の残業時間で「おおむね100時間超」とする。いわゆる「過労死ライン」の一つだ。

 敏博さんの場合、直近の残業が月85時間だったとして、国は当初、過労死と認めなかった。しかし名古屋高裁は2月、サービス労働などを含めれば「月100時間超の残業に匹敵する過重な労働」があったと認定し、国側が敗訴した。

 政府の「働き方改革実現会議」は3月、罰則を伴った残業時間の上限を「月100時間未満」と打ち出した。実質的に青天井だった残業時間への、初めての規制方針。労働問題に詳しい岩井羊一弁護士は規制自体は評価しながらも、過労死ラインと同じ上限設定を「死ぬかもしれない時間まで働かせることができる」と批判する。

 憲法は25条で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)を保障する。過労死ラインまで残業を許しても生存権は守られるのか。

 「社会全体で残業を減らす機運が高まれば」。息子のノートをめくる手を止め、清孝さんは願う。憲法理念の実現には、国民1人1人の意識も問われている。=終わり(この連載は、藤沢有哉と赤川肇が担当しました)