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【地域経済】人に技あり/記憶が呼ぶ次の香り

2017/04/27

調香師
資生堂 森下薫さん

 匂い紙を香料の小瓶に浸して鼻先へ。力強く吸い込むでもなく、呼吸を止めるでもない。「つまむように嗅ぐ」。資生堂の森下薫(49)=東京都国立市=は、調香師の極意をこう説く。

 嗅ぎ続ければ感覚は鈍る。匂い紙を鼻に寄せる数秒間、香料の特徴をどれだけつかむことができるか。それを1年、10年と繰り返しどれだけ蓄積できるか。

 「華やかに見える仕事だが、実は地道な訓練の繰り返し」

 従業員数四万六千人の資生堂でも、調香師はわずかに4人。その1人として最高級の香水やシャンプー「TSUBAKI」など名だたる商品に携わってきた。

 微妙な違いを嗅ぎ分け、500もの天然・合成香料を記憶。それらを組み合わせ、製品のコンセプトに合わせた香りを作り上げる。甘い、苦い、酸っぱい…。そんな日常の言葉では収まらない香りの目録を頭の中で整理していく。

 香水に入る香料は、時に数十種類にも及ぶ。「1つ余分な香りが加わるだけで全体が台無しになる。逆に1つ足りなければ、物足りない」。人の心をつかむ香りの空間を築けるかは、調香師の感性にかかっている。

 恋人が付けていた香水や幼いころにめでた庭の花。多くの人が香りを長く記憶するように、森下にも忘れられない「香りの原風景」がある。

 産声を上げたのは、三重県鳥羽市の病院。正面の伊勢湾からは潮風、裏手の材木商からは切り出されたばかりの木の香りが押し寄せ、幼子の自分は混然とした香りの渦に包まれている。今でも頭の中に鮮やかに残る記憶。森下は「鳥羽と自分は香りで結ばれている」と信じている。

 子どものころは魚釣りが一番の楽しみ。魚介類に興味があって津西高校から東北大農学部に進んだ。学んだ藻類の培養技術を生かそうと資生堂に入社したが、配属は畑違いの香料開発室。テーマパークを香りで満たす演出で頭角を現し、調香師の道に入った。

 森下が蓄えた香料の記憶は、化粧品メーカーの常識を超えた製品を生む。

 2008年、汗の臭いを抑えるデオドラント商品で女子中高生に人気が高かった「シーブリーズ」を改良する仕事が舞い込んだ。

 「ブランドイメージを変えてしまおう」。海や柑橘(かんきつ)を想起させる香りから、甘いベリー系に一変させた。さわやかさと甘さを両立するには、どこまでの甘さがベストか。試作を重ねて生み出した甘さの中にわずかに酸味を残す「クラッシュベリー」の新商品は男子にも広がり、爆発的なヒットとなる。「最近の若者は甘い香りでも嫌がらない」という森下の読みが当たった。

 香水は欧州が発祥で、日本では広く普及しているとは言い難い。それでも森下は「日本人も日本特有の香りに普段から親しんでいる。墨など和の感覚を持ち込めば、新たな地平が開けるのでは」と考える。

 都会の研究室にこもっていても郷里の風景を忘れることはない。透き通る海の青さと、切り出されて並ぶ木材の山。「いつか再び鳥羽の海辺に立ちたい」と願う。自分の世界観を養った香りの揺り籠に戻るため。そう、あの時と同じく潮風を胸いっぱい吸い込んで。(小柳悠志)=文中敬称略