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キラリ人生/脳出血から復帰したシェフ 「また食べたい」励みに

2014/09/10

 愛知県豊田市の洋食レストラン「乃ム羅(のむら)」。厨房(ちゅうぼう)に立つオーナーシェフの野村青児さん(67)は、右の利き手で握った包丁の背に左手を添え、左手に力を込めてニンジンを切る。右手のピーラーではなく、左手のジャガイモを動かして面取りをする。右手の握力は、小学校低学年程度の約10キロ。右半身は脳出血の後遺症で思うように動かないものの、地域の隠れた人気店を切り盛りする。

 21歳から名古屋市西区のホテル「ウェスティンナゴヤキャッスル」で腕を磨き、その後、系列ホテル「キャッスルプラザ」(同中村区)などで料理長を務めた。

 2000年に早期退職し、自宅1階を改修して念願の店を持った。08年には長男が大学を卒業。子育てが一段落して、料理と店づくりに磨きをかけようと意気込んでいたその年の12月、厨房で突然倒れた。ディナーを終え、翌日の仕込みも一段落した午後9時半ごろだった。

 救急搬送された病院で止血剤を投与され脳の出血は止まったが、昏睡(こんすい)は3週間続いた。意識が戻ったのは、リハビリのため別の病院へ移る車内のストレッチャーの上。あおむけに横たわり、車の天井が目に入った。しかし体は動かせず、言葉も出てこなかった。

 起き上がって座る練習や、発声のための口の開け方から始めたが、なかなか体の機能は元に戻らない。「助かって良かった」と思う半面で、「こんな体になってまで、この世にいる意味があるのか」と自問した。

 そんな時、なじみ客やホテル時代の後輩が「もう一度料理を食べたい」と病室を見舞ってくれ、「明日もリハビリを頑張ってみよう」と前向きさを取り戻した。指がぴくりと数ミリ動いただけで喜んでくれる家族も原動力だった。

 半年後、車いすなしで動けるようになり、11年3月にケーキと飲み物だけの店を再開させた。しかし、料理に期待する客ばかり。「ほとんど左手しか使えない。でも、こんな自分でもできるのではないか」。客の声が後押しとなり、5月に店を本格的に復活させた。

 倒れる前も、化学調味料は使わず食材は国産にこだわった。再開後は、洋食のくどさを取り除いてお年寄りの口に合わせようと、バターと小麦粉からルーを作るのをやめ、野菜だけでソースを仕立てている。「幅広い年代の人たちに楽しんでもらいたい」との思いからだ。

 母子家庭で育った少年時代。小学校4年生のときから、勤めで帰りの遅くなる母に代わって幼い妹2人に夕食を作った。そこで学んだ料理の楽しさと、妹たちの喜ぶ顔が原点だ。

 「洋食で多くの人を笑顔にさせたい。もっと料理を進化させていく」。料理人魂は尽きない。(諏訪慧)

自慢の料理を手にする野村青児さん=愛知県豊田市で
自慢の料理を手にする野村青児さん=愛知県豊田市で